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【 ≪異邦の騎士≫のネタバレを含みます 】

‖ 上記注意書きに危険を感じられた方はこちらからお戻り下さい ‖

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友情系 006-2 / TYPE-S

君色刹那の夕陽
きみいろせつなのゆうひ






  ――
大丈夫ですか!? お客様!



  薄い陶器の壊れる音が、静かな店内に響いた。僕はサイエンス・マガジンを読んでいた

 顔を上げ、音源の辺りに視線を投げる。

  カールの美しい金髪を高く一つに束ねたウェイトレスの立つテーブルの下で、純白のカ
  
  あめいろ                 せき
 ップと飴色の液体が不規則な模様を象っていた。客席に着いている男はどこか蒼褪めたよ
      
 よご
 うな顔色で、汚れたフローリングの上を茫然と眺めている。



  ――
申し訳ございません、すぐにエスプレッソとお取り替えしますので。もう暫くお待

    ちいただいても宜しいでしょうか?
             
 
はら 
  ――
……いや、僕の方こそ払い除けるつもりなんてなかったんだが……驚かせてしまっ
         
 よご
    たね、洋服を汚してしまったんじゃないかい?

  ――
いえ、私の方は別に……それよりお客様、何だかお顔の色が優れないようですけれ

    ど……奥で横になれるよう手配して参りましょうか?
                               
 しんたいてき
  ――
いや、大丈夫。…でも確かにゆっくりとお茶を楽しめるような身体的余裕はないか
           
 
いえ
    も知れないな……家へ帰って休んだ方が良いようだから、注文はキャンセルさせて

    貰うよ。すまないが、カップの後片付けも君に頼んでいいだろうか? 代金は、こ

    こへ置いておくから…
――

  ――
いえ、そんな……悪いのはこちらですから! それにこれでは……お代が多過ぎま

    す


  ――
壊してしまったカップの代金と迷惑料だ。本当に申し訳ないことをしたね。それじ

    ゃ……


  ――
あっ、あの……お客様!?



  困惑気味に立ち尽くすウェイトレスにさっと背を向け、男は足早に店を出た。彼が席を
                    
みと
 立った時、随分と背の高い男だなと思わず見惚れた。

  そして僕は男の横顔に心当たりを認め、慌てて自分も席を立つ。彼の足痕を追う。

  知り合いというわけではなかった。この痩せた身体も長い足も、初めて目にする種のも

 のだ。しかし――
      ・・・・・・
  多分僕は彼を知ってる。だから確かめたいと思った。
                         
 はら           
 
  何故彼がエスプレッソと間違えて運ばれてきた紅茶を払い除けてしまったのか。何故あ
 みたらいきよし
 ・・・・・
 の御手洗潔が紅茶を見て顔色を失っていたのかを――。





    
**********





  三つ目の角を曲がった辺りだったろうか。
      
 なん
 『君――僕に何の用だい?』

  颯爽と歩いていた男の背中が突然自分に向かい声をかけてきたのでぎょっとした。彼は

 秋風に癖の強い髪を靡かせながら、くるりとこちらを振り返る。
  せんこく                               えみ
  先刻見た“蒼褪めた男”の面影はすっかり消え去り、その口元には不敵な微笑さえ浮か

 んでいた。

 『――流石名探偵』
                      
 わず    しか
  僕が半ば感心、半ば冷やかすように呟くと彼は僅かに顔を顰める。しまった――怒らせ

 たいわけではなかったのだが。
            
こえ
  僕は少し慌てたような大声を上げた。寂しい道でのことだから、見物人など一人もいな

 い。

 『…あッ、えーと……違う違う、厭味じゃないんだ! ――ホラ、この雑誌!』

 『――…それは……』
                      
 
 『偶然あんたの姿見かけて、つい気になって後を尾けちゃっただけなんだよ! ファン、

 なんだ! だから…――』

 『ああ……』
                           
 かか
  彼は拍子抜けがしたように両肩の力を抜いた。僕が必死で掲げてみせた雑誌は『スヴェ

 ローナ』――ハインリッヒ・フォン・レーンドルフが『デッケイド・オブ・ザ・ブレイン

 (脳の十年)』という連載をしていた科学雑誌のバック・ナンバーである。

 『…すると君は学者としての僕のファン、なのかな?』
                   
 なに
 『学者として、って……じゃ、学者の他に何かファンの付くような活動をしてるわけ?』

  おかしなことを訊く人だな、という風に僕が小首を傾げてみせると、彼は『……いいや』
       
 のち
 と小さく呟いた後、低く笑った。真意の読み取りにくい表情の科学者は顔を上げると僕に

 訊ねる。

 『――君、いくつなんだい?』
  
とし
 『年齢? ……二十二歳だよ』

 『学生? 大学の』

 『うん……残念ながら、あんたの大学のじゃないけどね』

 『名前は?』
 
 じんのゆたか
 『神野友崇……』

 『日本人だね、やっぱり』

 『そうだよ、御手洗潔さん。あんたと同じ日本人。俺がストックホルムに来たのは六年前

 だけどね』

 『ふうん……』
               
そぶ      おもむろ
  彼は何事か考えているような素振りを見せると徐にズボンのポケットを探り銀色の鍵を
           
 あと
 取り出した。短い嘆息の後突然人を喰ったような態度になり、すぐ近くにある建物を指し

 示す。スウェーデン語を放棄した彼は、僕に向かいこう言った。

 「たまには日本語で話がしたいと思っていたところだったんだ――言葉は長く遣わないと

 話せなくなるからね。もし君に時間があるならちょっと寄っていかないか? ここのアパ

 ートなんだけど」

 「えっ……」

  何て唐突な人なんだろうと思った――まだ出逢ってから、数十分と経ってはいないのに。

  しかし僕はあっさりと頷いていた。どうした心境で誘われたのかは知らないが、きっと
  
  チャンス
 こんな機会は二度と巡ってこないだろうと思ったからだ。

 「下らない世間話のお相手でいいのなら喜んで」

  僕は日本語でそう答えた。すると彼は悪戯めいた笑顔で僕の方を振り返り、「下らない

 世間話をする時間は貴重だよ」と学者らしからぬことを、言った。





    
**********




                                     
いえ
  部屋に入った第一印象は“思っていたより物が少ないな”、だった。研究者の住居と言

 うからには壁際に並んだ本棚に本がぎっしりと詰まっているような感じかと想像していた

 が、特別そうした雰囲気の部屋でもない。

  どちらかと言うと殺風景な部屋だった。しかしイメージ通りとでも言うべきか、整然と

 はしていない。
          
 
 「カフェから僕の後を尾けてきた君、まだ喉が渇いているならペリエでも呑むかい?」
                    
 ほお  な
  彼は着ていたコートをぽんとベッドの上に放り投げ、こちらを振り返りながらそう言っ
                 
 ゆか
 た。僕がゆっくりと首を振ると、彼は床の上に坐り込む。

 「あまり清潔な場所じゃなくてすまないね」

 「いや別に。俺が寝泊まりする部屋じゃないんだし」

 「はは、否定はしてくれないわけだ」

 「だってこの状況だぜ? お世辞にも“キレイに片付いてますね”なんて言えないだろ?」

  僕は床上に散乱しているファックス用紙を数枚拾い、自分も適当な場所へと腰を下ろし

 た。坐りながら英文をちらと目で追ってみたが、内容が専門的過ぎてほとんど理解出来な

 い。
  
さっすが 
 「流石大学教授様だ……訳解んないや」

 「ん? 何が?」

 「ファックス」

 「あぁ。…でも君だって科学を専門にやっているんだろう? 興味を持って続けていれば

 そのぐらいは解るようになるよ」

 「あっ、あぁ……あはは、そうだね」

  ――危ない。専門的な話は避けた方が無難だ。

 「でも俺、文字見るのあんまり好きじゃないからなぁ……こうやって親に学費出して貰っ

 て大学行ってても、やっぱり学問には向いてないんじゃないかと時々不安になる。…本読

 んだりもあんまりしないし」

 「……――ふぅん」
     
 
  ……妙な間があった。一体何を考えているのだろう、鼓動が逸り始める。

  すると彼は少し堅く見えていた表情をふっと和らげ、自然な笑顔を見せ始めた。僕は自

 分の選択が間違っていなかったことに、心の中で安堵する。

  それにしても彼はファンを自称しつつも自分に馴れ馴れしい口を利いてくる僕を不審に

 は思わないのだろうか、調子に乗った軽口を叩いても不愉快な表情一つ見せずにこちらの

 世間話に応じてくれる。大人だからかな、とも考えたがどうやらそれが理由ではない気が
             
ひと
 した。感情の起伏の乏しい男性だな、と思った。
                         
もの
  ――普通は初対面で、しかもあんな出逢い方をした人間同士の間で会話を発展させるこ

 とは難しいと思う。しかし彼は話題が豊富な上に話術が巧みだったし、僕も無駄なお喋り
    
 たち            またた
 ま
 が得意な質だった。気が付くと時間は瞬く間に過ぎ、互いが空腹であることに気付かされ

 る。

  僕は自慢の足で近くのファーストフード店まで走り、二人分の簡単な食事を買ってきた。

 彼はお使いに出てくれたお礼だと言い、僕の食事代も奢ってくれた。

  ハンバーガーをぱく付きながら、僕は何気なく彼に言う。

 「それにしても御手洗さん――結婚してないってことは解ったけどさ」

 「うん?」
                            
さっき
 「あんた絶対奥さん貰った方がいいタイプだよ。だって――先刻から話聞いてたら自分の
                           
モン
 したいことしか出来ないみたいじゃん。冷蔵庫にはろくな食糧入ってなかったし、どうせ
   
おんな
 掃除と同じで料理も全然出来ないんだろ?」

 「確かに、得意ではないけどね」

 「ホント、そんなので成人してから三十年近くもよく生きてこれたなぁ、ずーっと外食だ

 ったわけ? 病気ンなっちゃうよ? 俺、今まで色んな人間と出逢ってきたけど、御手洗

 さん程生活能力なさそうなのは見たことない」

 「そうかな」
                        
 なん
 「そうだよ。研究に没頭すんのもいいけど、せっかく何か発見しても発表する前に死んじ

 まったら元も子もねーだろ。ああ、あんた何て言うのかな…――そう! 家庭料理っての

 ? ああいうもん作って喰わしてくれる人切実に捜した方がいいと思う。って言うか喰っ

 たことないんじゃないの? 俺、こっち来てから和食が恋しくってさぁ――…解んないん

 だろうな、こういう感覚」
        
 はな
  僕がだらだらと話していると段々に彼の表情が翳り始めるのが解った。しかし不機嫌に

 なったという程でもない。子供が拗ねた時のような口調で、彼は言った。

 「全然そういうことを知らずにこの歳になったんじゃないよ。ちゃんと家庭料理とやらの

 味は知ってる」

 「――――」
           
かお               かお
  ――驚いた。こんな表情の出来る人だったのか。こんな表情、つまり――“負けん気の
             
かお   いま
 強い子供が見せるような、表情”。先刻、ほんの少しだけ余裕に充ちた天才教授の仮面が

 剥がれた。

  だからつい、好奇心に負け――僕はわざと言ってしまったのだ。彼を挑発するような言

 葉を。彼の感情を引き出せそうな科白を。
    
ガキ                                 

 「それ子供の頃の話だろー? そういうんじゃなくてさ、もっと大人になってからの喰い
 もん 
 物って言うか……」

  すると彼は思惑通り話に乗ってきたのだった。彼の望みとは裏腹に、するすると――口

 から言葉が滑り出る。

 「だから。――大人になってから大人用の家庭料理を食べていたという意味だよ。たまに
                         
 いえ    もの
 は外食もしたけどね、基本的には三十代から十五年近く家で作った料理を食べていた」
                          
 メシ
 「こっちに来てからは料理しない男が日本にいた頃は三食飯作ってたっての?」

 「違う。作ってくれる人がいたって言うかね…」

 「へえー!? 何それ、結婚なんて莫迦莫迦しいとか言っといて同棲してた恋人がいたって

 こと!?」

 「同棲じゃない、同居だ。しかも相手は恋人じゃないし」

 「だって料理作ってくれたってことは女だろ? それで同居で恋人じゃないってことない

 んじゃない?」

 「彼が聞いたら何て言うかな」

 「彼? …ってことは男、なの?」

 「――そうだ。友人と同居をしていた」

 「…あっは、あんたみたいな自由人と同居するなんてまた随分と凄い人がいたもんだな。

 想像しただけでも世話するのが大変そうだ」

 「ああ、彼もよくそう言ってぼやいていたよ」

  自分の意志とは無関係に、唇は次々と言葉を紡ぐ。彼の答えを促しながらも、内心僕は

 焦り始めた。どうしよう、どうしよう……どうして、彼は素直に質問に答えているのだろ

 う……。

 「……だけど、男の作った料理だったらやっぱそれはそれで大したものじゃなかったんじ

 ゃない? 料理人とかじゃないんでしょ? その人の職業」

 「職業は一応作家だった。でも料理は――巧かったよ。鯖の味噌煮とか手巻き寿司とか」
                             
さっき
 「ふぅん…――ん? でもちょっと待って。…十五年……? 先刻十五年って言った? 

 三十から」

 「…――いや、もういいだろう、この話は。話題を変えよう」

 「変えられないよ! 何、何で何で? 何でその同居解消したの? あ――相手の人が結

 婚したとか?」

 「結婚なんかしてない。ついでに言うとまだ解消もしていない」

 「何だよ、そりゃ。だってあんたここに来てから随分経つようなこと言ってたじゃないか」

 「ああ、だから。――…僕が自分の仕事の為に、彼を置いてきたんだよ」
        
 あと
  小さな舌打ちの後に発された彼の言に、僕は一瞬戸惑った。しかし――ここまで来たら

 もう手遅れなのだ、寧ろ最後まで訊かない方が不自然に取られるだろう。

 「――何、それでその人日本に待たせてんの? 友達ってことはあんたと同い歳ぐらいの

 オッサンだろ? 待たせてどうするつもりなの? 御手洗さんって勝手な奴!」

 「ああ、勝手な奴だ」

 「その人も何考えてんだ、俺には全く理解出来ない。そもそも男二人が三十から同居して

 どうしようってんだ? 今までの話の中で一番興味あるよ、はっきり言って! ねえ、ど
            
 はな
 うせだったらその人のこと話してよ、どんな人なの? そんなに気のいい人だったの?」

 「ああもう、うるさいな……言うんじゃなかった」

  彼はとうとう不愉快そうに顔を歪めるとふいと頬を逸らし立ち上がった。痩せているく

 せにいやに逞しい印象の右腕で窓際のカーテンを引く。
                            
 あか    
  外はもう陽が暮れかかっているようだった。天から降り注ぐ朱い光が、決して広くはな

 い生活空間に充たされる。
                
 ゆか
  すると彼はふと室内を振り返り、床に散乱しているファックス用紙を眺めた。ゆっくり

 双眸を細めると、切ない声色で僕に言う。

 「…まあいいか……たまにはこんな日があっても」

 「…………?」
    
 はな                             あいだ
 「本当は話したくなんてなかったんだけどね……仕方ない。これから少しの間、オジサン

 の下らない昔話に付き合って貰うよ」

 「――――…」

  彼はベッドの上へ坐り込むと僕を見て薄く笑った。夕陽に染まった横顔は、どこかしら、

 寂しげに見えた。





    
‥‥‥***‥ * ‥***‥‥‥





  ある秋の日の夕暮れだった。
 
 かれはいろ                        おうごん
  枯葉色のカーテンを開け放したヴェランダの窓からは厳かに黄金の光が射し込み、デス

 クの上で本で読む御手洗の肢体を優しく照らし続けている。

  同居人は取り込み終えたばかりのシーツを両手に抱え、彫刻のように静かにしている友

 人の姿を見つめると無言で浴室へと入っていった。読書をしているはずの御手洗の視線は、

 ぴくりとも動く気配を見せない。
          
 あと
  暫しの沈黙に耐えた後、御手洗は自分の総身をゆっくりと覆い始めている影に気付き英

 文字の羅列から目を離した。

  音を立てず、静かに本を閉じる。
                              
はさみ いろ
  振り返ると同時、眩しげに目を細めた同居人の手に握られていた鋏の銀色に御手洗は双

 眸を射抜かれた。

 「御手洗君、そろそろ……その髪、切ってしまった方が良くないかい?」

 「…ああ、そうだね。本を読む時邪魔になる」

 「
――君の表情を、読む時にもね……」
                      
  こうかく
  同居人は左手でそっと御手洗の長い前髪を梳くと口角を歪めて苦く微笑った。そんな彼

 を正面から見上げ、友人の真意を読み取ろうとする御手洗。

 「
――さ、移動して……」

  穏やかな声に促され静かに席を立った御手洗は前髪をゆるゆると掻き上げ部屋の中央へ

 と歩き始める。
                                    
 から
  意図して盗み見た友人は御手洗の呑み残した紅茶を神妙な顔付きで一口呷り、空になっ
          
  キッチン
 たティーカップを静々と厨房の流しへと運んでいた。





    
‥‥*‥‥





  夕陽を浴び、オレンジ色に染まる新聞紙の上にはらはらと癖のある黒髪が落ちてゆく。

  気味が悪い程に静かな空間だった。髪を切りながら、切られながら互いが何を考えてい

 るのか、全く見当も付かない。

  水を打ったような沈黙を波立たせたのは同居人の方だった。
            
はさみ
 「…いい音立てるね、この鋏……よく切れる……」

 「…ああ。君がその気になりさえすれば、それで僕を殺せるぜ……?」

 「あはっ、本当だ……」

  探偵役のいないミステリーか、一体どんな結末になるのかな……? 
――友人が呟き、

 会話は途切れた。ここでこうしている二人は自然なのだろうか、不自然なのだろうか? 

 誰にも解らない。
              
 のち    どくげん  
  だんせい
  ふっ、と短く嘆息を洩らした後、まるで独言のような男声が室内に流れ始めた。周囲に

 は、彼の声と刃物の音だけが響く。
      
いま
 「ねぇ……現代の日本で僕達程当たり前のように堂々と男の二人暮らしを続けていられる

 人間も世間に多くはいないだろうね。そして同時に
――僕達程毎日のようにその関係を疑

 われ続けている人間も、やはり多くはいないと思う……」

 「…………」

 「君はあまり目を通さないから知らないだろうけどね、実はかなり前から、ファンレター

 なんかにはそういうことってよく書かれてきてたんだよ。その……笑い事や冗談事じゃ、

 済まないようなこと……君に解るかな……? そこで僕は考えてみたんだけど、本当は僕、

 君みたいな人間は苦手、って言うかね……まぁどちらかと言ってしまうと、嫌い…なはず

 なんだ……」

 「…………」

 「でも僕は今、こうしていることをそれ程不愉快だとは思っていない……」
       
はさみ         あめいろ
  シャキン、と鋏が鋭い音を立てる。飴色の海に沈みながら、御手洗は無言のままそれを

 聞いていた。

 「離れるよ。普通なら
――僕は多分、相手との距離を考える。でも君ならいいかと思って

 しまう、君となら……このままで、いいのかなって…
――ほら、僕この間山口の実家に帰

 ったじゃないか? あの時こんな息子をどう思っているのかって訊いてみたら……母親が、

 突然こんなことを言い出したんだ。『もう貴方が結婚するなんて考えてないから。そのま

 ま御手洗さんと一緒に歳を取ったらいい』って……」

 「…………」

 「親にまでそんな風に思われていたと知って驚いたよ。冗談じゃないって思った。だって

 ……そんなこと。…笑うだろ……?」
            
はさみ
  御手洗は笑わなかった。鋏の音だけが響く。

 「僕は君のことを知らない。子供の頃のことも、家族のことすら知らない……君だって、

 僕の過去なんてほとんど知っちゃいないはずだ。でも……こうしていることが何だか当た
                
 
 り前になっていて……こうして髪に触れてても、下着を洗ってても、平気で……」

 「…………」

 「…僕達って……変だね……?」

  言いながらも、同居人の口調は少しも乱れることがなかった。恐ろしい程の静寂の中。

 そして、ある種の決意を孕んだ口調が告げる。

 「想像してしまうことがある……深い意味はなくても、やっぱり……想像してしまうこと

 は……

  ねぇ御手洗君、YesかNoかでだけ答えて欲しい。君は今、僕にそう思われた瞬間が

 あったことを不快に思わなかったかい? 僕との暮らしの中で、君にもそういう瞬間が一

 度でもあったかい? …YesかNoかでだけ、答えて欲しい……」
                           
 
わず     えが
  御手洗はここへ来てようやくその表情を動かした。眉根が僅かに苦悩を描く。同居人は

 手を休めずに彼の答えを待っていた。

  やがて、冷静とも哀しげとも取れる声色が響く。

 「Yes」

  そして、もう一度。

 「Yes……」

  刃物の音が不自然に途切れる。
                                
 あと
  瞬間、二人は同時にゆっくりと長く双眸を閉じた。そして短い嘆息の後、友人は再び器

 用な右手を動かし始める。
                           
  だんせい
  もう多くを発さなくなった唇から、たった一言だけ穏やかな男声が零れた。

 「……ありがとう……」

  
――果たして、二人は互いの言葉の意味を正確に理解していたのだろうか。会話は成立

 していたのだろうか?

  御手洗は今、二つの問いに対し肯定の返事をしたのではなくどちらか一つの問いに対し

 重ねて返事をしたのではないだろうか。また友人も同様に、彼の返事の内容にではなく反

 応を返したこと自体に感謝の意を示したのではなかろうか。

  
――解らない、何もかも。

  そして最後に……彼は独り言のように、まるで自らに言い聞かせるように呟く。
           
 
          
 「もしどちらかがここを出て行く時は……突然出て行くのがいいと思う。そんな前兆など

 少しも見せずに、話し合う機会も作らず…
――多分それを実行するのは君の方だと思うけ
                     
 

 ど……そしてその時は、相手が簡単に追っては行けないようなところまで行ってしまうの

 がいいと思う。そしたら僕は君を追えない……だって“自分の意志で出て行った友人”を

 どんな理由で追っていける? 配偶者や恋人ならともかく、家族だってそんなことはしな

 いよ。ただの友人の後を追いかけていって『また一緒に暮らしたい』だなんてね……そん

 な話には普通ならない。もしなったとしたら、それは二人の関係が変わった時だ。……解

 るだろう?
   
 
 
  
――出て行く時は突然、追うことが不自然なくらい遠くへ行ってしまうのがいいと思う

 ……そしたら残された者は自分の不甲斐なさを呪い……相手を憎み……生きていくことが

 出来るから……」
 
 わず
  僅かに声が震えているような気がした。

  しかし涙を溜めている表情を想像するよりは寧ろ、穏やかに微笑んでいる様子の方が自

 然であるような気もした。

  解らなかった。何もかも。
              
 
あか
  ただ二人は、気味が悪い程の朱い静寂に包まれて…
――





    
‥‥‥***‥ * ‥***‥‥‥





 「あんた達……いくつだったの?」

 「――憶えてない」

 「でも思い出したヴィジュアルで何となくは…」

 「彼はいつも実際の年齢より若く見える人だったから。…解らないな……いつのことだっ

 たか」
                    
かお
  彼は薄く微笑を浮かべながらも辛そうな表情でそう言った。少し疲れたような頬に夕陽

 を映しベッドの上で堅く両手を握り締めている。

  僕は何と声をかけて良いのか解らず、ただ黙って彼の様子を見守っていた。やがて、低
       
  だんせい
 く絞り出すような男声が再び室内に響き始める。

 「僕だって何も考えてなかったわけじゃない……気が付かずに一生を終えることも出来た
                  
 ほお
 かも知れないが、とにかく周囲が僕達を放っておいてはくれなかったから……いや、違う
                        
 なに
 ……あのまま誰にも何も言われずに過ごしていても、何かが不自然なことにはきっと気付

 いたはずだ……ああ、解らない、どうしてそんな深みに嵌まってしまったのか……友人と

 暮らし続けるのがそんなにおかしなことなのか……? そんなに不安になるようなことな

 のか……?」

 「…………」

 「…いや、なるだろうな……彼は僕とは違う……この僕だって不思議に思ったことがある

 生活だ、彼には…――辛かったのかも知れない……」

 「…………」

 「だから、出て行ったけど――」

  彼は苦笑を洩らしつつ首を垂れた。長い前髪で顔を隠し、握った両手で膝を打つ。

 「六年だ……六年だぞ? どうして逢いに来ない? 一目顔を見るだけでもいいじゃない

 か、何故逢いに来ない? あぁ、どうだっていいのは彼の方じゃないか、僕がいなくたっ

 て困らないのは彼の方じゃないか……どうして、どうして……――」

  もう自分が何を言っているのかすら解っていないのかも知れない。感情のままに溢れ出

 す言葉を次々と音に変え彼は視線を落としていた。だから僕はつい、言ってしまったのだ。

 「あんた……その人のこと好きなんだ?」

 「…――――」
                         
 
しか  なに
  すると彼はぴくりと頬を引き攣らせ顔を上げた。眉を顰め、何か厭なものでも見るかの

 ようにこちらの真意を窺ってくる。敵意すら感じられる双眸が鋭く僕を射抜いた。

 「……好きってどういう意味だ?」

  うんざりだ、とその表情が物語っている。実際何度も訊かれ続けてきた質問だったのだ

 ろう。自分自身にもよく解らない感情の名を答えろと言われるのは確かに辛いことであっ

 たに違いない。

  しかし僕は質問をしたつもりではなく、感じたそのままを口にしただけだったのだ。

 「……好きは好きだよ、意味なんかない」

  言うと、彼は少し驚いたように僕を見返してきた。意外なことを訊かれたとでも言いた

 げに半ば放心さえしている。そして――

 「……ああ……」

  とても苦悩した様子で低くそう呟くと、頭を大きく静かに頷かせ僕を振り返ったのだっ

 た。

 「ああ、とてもね――…」

  その時、彼は一瞬だけ双眸に涙を溜め酷く辛そうに顔を歪めながら笑った。今から大声

 で泣き出すか、それとも狂ったように笑い出すのか――そのどちらかを耐えているような

 表情だったが、しかしどちらも彼は形にしなかった。ここで泣いたら少しは楽になれるの

 にな、と思った。

  彼は――…
       
ひと
  彼は孤独な男性だ。容姿にも才能にも恵まれてはいるが、代わりにいつでも完璧である

 ことを要求される。たまにふざけて道化を演じることは出来ても、心からの弱音を吐くこ

 とは赦されないのだ。それを赦さないのは世間か彼か――恐らく、両方なのだろう。

  きっと彼は幼い頃から全ての感情を自分の中で処理してきたに違いない。そうすること

 に慣れてしまったのだ。長い人生の中で信頼の出来るパートナーにでも出逢えれば良かっ

 たのだろうが――皮肉なことに彼の選んだ親友は生涯最大の苦悩の運び手となり、それを

 打ち明けられる存在ではなかった。

  苦しい生き方をしていると思う。一見自由人に見える為に彼は人から羨まれるが、その

 実縛られた生き方をしているのは彼の方なのだ。なのに、周囲の者達はこんな彼を独りで

 生きていける人間だと勘違いしてしまった。これ程の悲劇があるだろうか。
     
 のち
  僕はその後の二時間半を彼の部屋で過ごした。それでも結局、最後まで彼は泣くことを

 しなかった。





    
**********




             
どうちゅう
  アパートを後にし、帰りの道中で考えた。
                 
 
  彼等の関係は常人に量れるものでは決してない。
                
  いしおか
  御手洗さん、何て寂しい人。そして石岡さん、何て……哀しい人。

  僕は彼の部屋の窓の辺りに視線を向けると、小さく頭を下げ呟いた。

 「ごめんなさい……御手洗さん」

  僕は、貴方に――嘘を、吐いた。

  ストックホルムへ来たのは六年前、これは本当。

  僕があまり本が好きではない、これも本当。
                    
かずみ
  だけど一つだけ例外があって、僕は石岡和己という作家が書いたものだけは必ず購読し

 ている。妹に頼んで、新刊は日本から送って貰っているぐらいだ。

  僕は本当は体育大学の学生で――“科学者としての御手洗潔”ではなく“探偵としての

 御手洗潔”の愛好家だった。でも彼はそれを望んでいない風に見えたから――僕は、思わ

 ず嘘を吐いてしまったのだ。

  実際、僕が日本での二人を知る者なのだと解っていたら彼はあんな打ち明け話など絶対

 口にはしなかっただろう。

  御手洗さんは弱い人だった。驚く程に――弱い男だった。



  ――その人は……あんたのこと、好きだったのかな……?

  ――さあ……尊敬していると言われたことはあるが、それも昔の話だしね。……解らな

    いよ



  自信なげにそう言った、あの寂しい眸の色が今でも忘れられない。二人の絆とはきっと

 何よりも強いものであると同時に、酷く繊細で壊れ易いものでもあるのだろう。

 「でもね、御手洗さん……」

  俺が心情的にも物理的にも一番大切にしている長篇、あの本の存在がやっぱりあんた達
                              
こい
 の関係を強く物語っているんじゃないかと思う。あの話は壮大な恋愛物語であると同時に、

 彼が認めた親友との交流を綴った本でもあるってこと。

  あんた“異邦の騎士”なんだよ――その意味、考えたことあんのかな?
                 
 はら 
  結局、御手洗さんがカフェで紅茶を払い除けた本当の理由は解らなかった。
         
 なに                    
 ゆか     あか
  あの紅茶の種類が何か思い出を含んだものだったのか、それとも、床に広がった朱い色

 が先程のシーンを喚起したものか――恐らくそんなところだとは思うが、正確な理由は不

 明のままだ。

  しかし、彼が心情的な理由でカップを倒したことは間違いない。そしてその影には――

 当然“彼”の姿があるはずだった。
 
みんな
 「皆――“好き”だから幸せになって欲しいだけなのにね――…」

  僕を含む読者達も、御手洗さんも、――石岡さんも。

  難しいことだけれど、今日の僕との出逢いが御手洗さんを傷付けていなければいいなと

 祈りをこめながら、思った。











≪彩色無限の青空≫で石岡さんに苦悩して貰ったので、
じゃあ御手洗さんヴァージョンもいるかなと思って。
でもこっちの方が結局悩みは深いのね?
だってほら、彼“苦悩の帝王”だから……(可哀相じゃん!:苦笑)。




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