EXTRA STAGE 011-1 / TYPE-S 僕だけが、君のことを ぼくだけが、きみのことを |
初めて“それ”に気が付いたのは、七月半ばの午後だった。見慣れたリビングの見慣れ たソファ、その上に横たわり昼寝をしている見慣れた同居人が眉間深くに皺を刻み悪い夢 うな に魘されている。 部屋を横切ろうとしてその様を見つけた僕は身体の具合でも悪いのかと慌てて彼に駆け 寄ったが、近付いてみると完全に眠っているらしいことが解ったので、ほっと胸を撫で下 ろすと同時に友人を現実へと戻してやった。 つ 彼は長い前髪を掻きながら双眸を閉じ息を吐く。 うな 「…酷く魘されてたぜ、大丈夫なのか?」 「ああ、大丈夫だ……すまないが水を一杯用意してきては貰えないだろうか? ――…あ りがとう。 いしおかくん うな さいちゅう なに それで、あの……石岡君、僕は魘されている最中、何か言葉を発してはいなかっただろ うか? 例えば、その……君を、驚かせるようなことを」 「えっ? …いいや、別に? 特には気付かなかったけど……君自身は、見た夢の内容を 憶えてはいないのかい?」 「――…ああ、全く。幸か不幸か、ね」 「……そう」 から 彼が空にしたタンブラーを流しへと運びながら、僕はその双眸をすっと細める。 みたらい ――嘘だ。御手洗は夢の中の心境をはっきりと言葉にして僕に伝えた。だから僕はそれ を実行してやったのだ。どうやら当人の方は夢の内容をすっかり忘れてしまっているらし いが――まぁ別に、わざわざ厭なこと思い出させる必要もないだろう。 僕は硝子を洗っている水の流れを見つめながら先程耳にした友人の呟きを思い出してい た。 そう、彼は僕に向かってこう言ったのだ。 “お願い”“早く”“助けて”――と。 ********** ご そんなことがあった数日後の夜。僕は二度目の“それ”に遭遇した。徹夜で資料の整理 をしていた僕はホッチキスの針を拝借しようと足音を忍ばせ彼の部屋へと向かったのだが、 その時侵入者の気配にも気付かぬ様子で深い眠りに落ちていた彼は、またおかしな夢に苦 しみ喘いでいたのである。 密かに入った寝室の内側で、僕は恐ろしい程冷静に彼の寝顔を見下ろしていた。そして うな “もしかして彼は毎日悪い夢に魘されているのだろうか”、“夢の内容はいつも同じもの なのだろうか”と小首を傾げながら考える。 僕は彼のデスクの上から必要なものを捜し出し、それをズボンのポケットへと忍ばせベ ッドの傍に近付いた。 うな つづ 彼は魘され続けている。これ程苦しそうな表情には、鬱病の時でさえ滅多にお目にかか れない。 わず 僕は唇の端を僅かに吊り上げ少し笑うと、彼の肩に手を掛け遠慮がちに揺さ振った。 「御手洗、おい…――御手洗っ!」 「――…けて……助、…け……」 「御手洗、それは夢だよ、起きろ、……御手洗っ!」 「――…ぁ、っ…はぁっ…!」 「…起きたか? 僕が解る?」 「…――あぁ……」 りょうがん 彼は上体を起こしながらぼんやりと両眼を開き、薄い闇の中にいる僕の姿を見つめる。 やがて両掌で顔面を覆うと、掠れた声で窺うように言った。 「あぁ、石岡君、すまない……違う部屋にいる君を起こしてしまう程、僕は大騒ぎをして いたのかな……?」 「ううん、僕はたまたまリビングのデスクの方まで来てて……そしたら、何だか妙な声が 聞こえたから。…それより大丈夫なのか? 随分と厭な夢、見てたみたいだけど……」 「…いや、…――あれ? はは、駄目だね、また肝心の内容の方は忘れてしまっているみ なに たいだ。――…君は何か…聞かなかったのかい? その…夢の内容を、暗示するような言 葉を」 うな なに 「…ううん、何も? ただ、魘されていただけだよ。ちょっと待って、今水か何か――持 ってきてやるから」 「あぁ……頼むよ……」 僕が用意したグラスの水を一息に呑み干すと、彼はどこかしら悩ましげな表情でベッド の上に坐り直した。――眠るのが怖いらしい。 「僕はもう少し気分が落ち着いてから眠ることにするよ。石岡君――仕事の邪魔をして、 申し訳なかったね」 「いや、僕の方は明け方まで部屋で仕事をしているつもりだから……もし具合が悪いよう なら、いつでも声かけてよね」 「水、ありがとう」 「あぁ」 ――おやすみ かお 僕は心底心配そうな表情で彼を振り返り部屋を出ると、閉ざされた扉の前で小さく声を 出して笑った。 一体何が楽しいっていうんだろう――親友が苦しんでいるというのに。 だがどうしても僕のくすくす笑いは止まらなかった。僕は異常者なのかも知れない。 あと 彼の悪夢はその後も二〜三度続いた。リビングで、寝室で起こるそれを間近で見下ろし ながら、それでも僕は彼を起こすことをしなかった。 ********** 悪意があったわけではない。ただ僕は――恐らく“夢”というものの存在を、少し軽ん じていただけなのだ。 僕は人に誇れるものを数多く持ってはいない。昔からしばしば自己嫌悪に陥ることはあ ったが、彼と知り合ってからというもの、その機会は数倍にも増して膨れ上がった。 僕はただほんの少し、誰かに必要とされたかっただけなのだ。 ・・ きよし しん あの御手洗潔に心からの助けを乞われ、僕がそれに応える。そんな瞬間が、僕には純粋 いとお に愛しかった。 もし彼が“現実”に苦しめられていたのなら、僕は親身になり彼を救うことのみを考え ほお たと思う。しかし所詮は“夢”なのだ。放っておいても目さえ醒めれば自然に恐怖心は薄 らいでゆく。 自分に悪意がないことを知っているからこそ、僕は自分が罪を犯しているとは思わなか った。彼の珍しく見せる耐えるような表情や媚態に、興味も感じていたのかも知れない。 わず いつしか僕は彼の寝姿を観察することを日課とするようになっていた。眠る時間を僅か にずらすことで擦れ違いの日々が続き、それでも――僕は彼の悪夢を左右出来る自分の立 場を恐らく心の奥底から、楽しんでいたのだ。 ********** そんなある日。 僕の夢の中に、御手洗が出てきた。 うな つづ 夢の中でも彼はベッドに横たわり、悪い夢に魘され続けている。 乱れた呼吸が間近で響くようだった。 ――…助けて…… 時折囁くような声も聞こえる。 夢の中の僕は、そんな彼をただじっと見下ろしていた。 えみ いや――ただ見下ろしていたわけではない、僕は口元に微笑を浮かべて友人が苦しみ喘 ぐ様を“見物”していたのだ。 かれ 僕の意識が“自分”に向かって言葉を投げる。 ――何やってんだよ、助けてやれよ…… かれ えみ だが“自分”の口元から不気味な冷笑は消えない。 見ているうちに僕は泣きたいような気分になってきた。不自由なこの夢の中では、僕の 意識の叫びだけでは御手洗を救うことなど出来はしないのだ。 しょうぜん 自分自身の裏切りを眼前に認めながら、僕は悄然と涙を流す。 あぁそうだ……僕は一体何を勘違いしていたのか。何故“たかが夢”などと思ってしま ったのか、これは立派な“現実”じゃないか? 夢の中でベッドに横たわる御手洗はどこかしらいつもの精彩を欠き、疲弊しているよう な顔をしていた。肌の色も悪く、頬の肉も心なしか削げ落ちてしまっているようだ。 彼は“悪夢を見続ける”という“現実”に身体中を蝕まれていたのだ。目醒めても恐怖 は消えない、眠らずとも不安は消えない。 僕は涙を流して叫んだ。ああ…何故この声が目の前にいる彼に届かぬのか。 御手洗、起きてくれ…… 起きてくれ!! 「――石岡君!!」 「――――…ッ…!」 はっと、両瞼を開いた。目の前に御手洗の顔があり、周囲には見慣れた衝立や応接セッ うたたね トが見える。僕は…リビングで、転寝をしていたのか……? 「……あぁ良かった、石岡君……具合が悪いわけじゃなさそうだね。びっくりしたよ、酷 うな く、魘されていたから……」 「…あ、ああ……そんな…に……?」 「とても苦しそうだったから慌てて起こしたんだよ。その…一刻も早く楽にしてあげたく てね。僕が出掛けている時じゃなくて、本当に良かった」 「…御、…――」 僕はソファの上で身体を起こすと、思わず左手で目元を覆い声を殺しながら泣き出して そぶ つ しまう。御手洗は少し驚いた素振りを見せたが、短く息を吐くと僕の肩を抱いて言った。 「はは、どうしたんだ石岡君、泣く程怖い夢でも見たのかい?」 「…違う……」 怖いのは――恐ろしいのは、この僕自身の愚かさだ。 「御手洗君……僕を、殴ってくれ……」 「…えっ?」 「僕は君に酷いことをしたんだ、だから……」 彼の肩に額を乗せたまま呟くようにそう言うと、俯けた鼻の先からぽたぽたと涙の雫が 落ちてゆく。彼は僕の両肩に手を掛けその顔を覗き込むと、少し困ったような表情を作り 笑いながら言った。 ねぼ 「石岡君……君、寝惚けているのかい? 僕は君に酷いことなんて、何一つとしてされち ゃいないよ?」 「…ごめん、ね……――ごめん…」 小さくそればかりを繰り返すと、彼はポンポンと軽く僕の背を叩いてくれる。――優し くされる権利など、僕にはないのに。 軽蔑される覚悟を決め、僕は言った。 「君は一体…何からそんなに助かりたいの……?」 「…――――」 「どうすれば……僕は君を、救えるのかな……?」 「石岡君、君…」 かお うん、と情けない表情で頷くと僕はもう一度小さく「ごめん」と呟く。彼がその科白の 意図をどこまで理解出来たのかは不明だが、僕と真っ向から向かい合うと男性的な声色が ぽつぽつと語り始めた。 ゆ 「…怖い…とても怖い夢でね……僕はいつも夢の中で殺されるんだ。暗い闇の中で一人行 あて く宛もなく佇んでいると、必ず誰かが対向線上から現れて……情け容赦なく、僕を殺す」 「…………」 「もう毎回同じパターンなんだよ。必ず同じ場所で、必ず一対一で。相手は僕の知り合い えもとくん で……。伯母、トミー、江本君、レオナ……僕は何度夢の中でこの腹を刺されたか知れな い。いつも夢の中で僕は叫ぶ。助けてくれと救いを求める。だけど……」 「……うん」 「怖いよ……どんなに僕らしくないと解っていても。ねぇ、どうして僕はこんな夢を見る んだろう……頭が、おかしいのかな」 「――…おかしくなんかないよ……」 僕には原因の見当が付いている。先日御手洗は現実の殺人事件で犯人を死に導くような 言動を取った。その時はいつもの毅然とした態度を保ってはいたが……その翌日彼は体調 を崩し、そしてこれらの夢を見続けるようになったのだ。“罪悪感”――僕にだって経験 はある。こんな仕事をしていれば悪夢ぐらい見て当然だ。 僕は堪らなくなりふわりと彼の背を抱き締めた。そして改めて自らの罪深さを悔いた。 何故僕はもっと早くに彼を助けることをしなかったのか、何故僕は彼の苦しみ喘ぐ様を見 ていたいなどと思ってしまったのか。 「これからは、守るから……君の眠りを、僕が守ってあげるから……」 贖罪の意味も込めそう呟くと、僕は彼の頬に軽く唇を押し当てた。額に、髪に、静かな キスを与えてゆく。再び頬に、そして無防備だった、唇に…… 「…――石岡君……」 みじろ 僕の腕の中で身動ぎながら彼が言った。泣き出しそうな、困惑を極めたような表情が視 界に映る。 「……石岡君…」 「――…何……」 「…やめて、くれないか……」 「……気持ち、悪い…?」 「そうじゃなくて……居心地が、悪いよ……」 「言葉……選んでるだろう……」 「…どうして、こんなことをする……?」 「……解らない…――」 ふ 僕は躊躇う頬に何度も触れていた唇でもう一度彼の唇を強く吸うと、ゆっくりその身体 を解放した。御手洗はソファに深く腰を掛け、大きな両掌で顔面を覆い呟く。 「…まだ…夢の中にいるみたいだ……」 「それは…“悪い夢”…?」 「あぁ……あぁ、そうかも知れないな……今の君は、怖いから……」 「――泣くなよ……」 「泣いてない……」 「泣いてるよ……もうしないから、顔、上げて……」 「一番僕が怖いのは…――君になることだよ」 「……何?」 「夢の中の殺人者が、君になることなんだ……」 「…――――」 「だって、そしたら助けを呼べない……誰を呼んだらいいのかも、…助けて欲しいと思う かさえ、解らない…――……だろ? だから……君だけが、僕のことを……」 俯きながら話し続ける御手洗を見つめ、僕は言葉を失った。彼の頭を軽く抱き込み、濡 ひら れた頬にキスをする。薄く開いた唇にそっと口吻け、再び痩せた背を抱いた。 「……もうしないって…言ったくせに……」 「じゃあ逃げろよ……」 「…――――」 なん 「…ごめん、嘘、ごめん……何か、言葉が見つからなくて……」 「見つからなかったら…キスするの…?」 「解らない……ねぇ、これは裏切り行為になるのかな……?」 「……解らない……」 つ 呟く彼の肩に頬を乗せ、僕は深く息を吐く。本当に、僕は一体何をしているのだろう― ―まるで、違う生き物にでもなってしまったような気さえする。 僕は彼の背を強く抱くと、言い聞かせるような口調で言った。 「大丈夫、大丈夫だよ、御手洗君……君は、僕が守る」 「…――君、が…?」 「ごめんね……こんなに痩せるまで気が付かなくて……」 うな 囁きながら彼のシャツの中へ手を差し入れる。これは彼が魘されている様を見ていた頃 から、ずっとしたいと思っていたこと。 「…石岡君、何…――」 「厭なら逃げればいい――僕を殴って」 「…何がしたいんだ……」 「僕が考えているのは君を救うこと。君に……悪夢を忘れさせることだけだよ……」 僕は呟きながら自分の衣服を次々とソファの周囲に投げ捨てた。僕はもう既に彼を裏切 っている。そしてこれから彼へ求めることも――もしかしたら、裏切りなのかも知れない。 彼はどう思っているのだろう、こんな僕のことを。――…どうするつもりなのだろう? 僕の返事は全て見せるよ、だから――… 「さぁ御手洗君――…答えを、聞かせて……」 |