EXTRA STAGE 001-1 / TYPE-S

君が心から、離れない
きみがこころから、はなれない







  最近同居人を見ていておかしなことを考えている、自分に気付く。元はと言えば、久し

 振りに会った西荻時代の友人と“あんな映画”を観に行ったこと自体が間違いだったのだ。

  いや――“あんな映画”などという表現をしてしまったが、作品の出来が悪かったとい
     
 
 うわけでは決してない。主演女優は大変な美人だったし、内容も感動的なヒューマン・ド

 ラマでなかなか楽しめるものだった。ヴィデオでも発売されるのならば買っても良いかと

 思える程だ。映画自体には、いささかの罪もありはしない。――が。

  舞台がアメリカのサンフランシスコだった。そして物語に直接的な関わりはなかったも

 のの“アルカトラス島”という地名が字幕に映し出された。主人公の兄を演じていた男優

 が長身巻毛のハンサムだった。――強いて問題を挙げるとしたら、この三点かも知れない。

  そしてもう一つ。

  外国映画の常として数多く目にするキスシーン、あれが何度か銀幕上に映し出された。

 官能的な映像ではなかったがとにかく友人、恋人に対するキスシーンというものが非常に

 多い映画だった気がする。

  これは今にして思えば寧ろ“性的な意味合いの強い映像”だったのなら僕の心は乱れる

 ことがなかったのかも知れない。しかし先にも言った通りそれは現実離れのしたSFファ
                                  
 えが
 ンタジーやドラマテックなラヴストーリーではなく、平凡な主人公の日常を描いた身近な

 ヒューマン・ドラマだったのだ。

  ――我ながら単純だな、と思う。思うのだが――想像してしまったのだから仕方がない。

 “彼も外国で暮らしていた頃は人並みにスキンシップをしていたのだろうか”、“彼は誰

 かと本格的なキスをしたことがあるのだろうか”――?

  帰りに立ち寄った喫茶店でもずうっとそればかりが頭の隅に引っ掛かり、数年振りに再

 会した友人の近況報告も、結局はほとんど理解出来なかった。





    **********





 「――食べにくいなァ」

 「……えっ?」
                            
 
  僕が作った冷麦を口へと運んでいた箸を止め、彼は短く息を吐いた。別に歯に異常があ
                    
 あま
 るわけではないと思ったが……茹で方が少し硬かったのだろうか?

  僕が小首を傾げながら箸で麺を弄っていると、彼は呆れたように苦笑し言葉を繋ぐ。
     
 いしおかくん
 「…違うよ石岡君、冷麦のことを言ったんじゃない。こちらはね、丁度いい茹で加減だし

 美味しいと思っているよ。でもね――」
  
みたらい                                 だんせい
  御手洗は長い腕を組むと少し困ったような表情を作り目を細めた。聞き馴染んだ男声が

 室内に響く。

 「君は一体、僕の何をそんなに見つめているのかな? この数日間ずっと――もし勘違い

 でなければ、それはこの“口”のように感じるんだけれど」

 「…あ……」
      
 なに
 「僕の口に、何か特別な用事でもあるのかい?」

  僕は一瞬ぎくりとした表情になったろうと思う。しまった、気付かれていた。

 「……石岡君?」

 「…いや……」

  そんな、真正面から見つめられても困るのだが。

 「まぁ、いいけどね……――でも、君にそんなつもりはなくても相手によってはおかしな

 ことを考える人もいるかも知れないから。あまり、余所ではやらない方がいいかと思って

 さ。……特に、女性相手にはね」

 「…………」

 「…あぁほら、冷麦。伸びちゃうよ」

 「…うん……」

  ――ああもう、僕ってば本当に厭になるぐらい単純だ。あれから四日と半日間、僕は事

 あるごとに知らず彼の唇を視線で追っていたのだろう。

  我ながら莫迦じゃないかと思う。…と言うか、不審に思われはしなかっただろうか?
                                       
 
  ついつい彼の口元を見つめてしまうことを恐れ、僕は不自然に顔を逸らしながらその後

 の昼食を続ける。彼は少し居心地が悪そうな表情でこちらを意識しながら、静かに冷麦の

 残りを啜っていた。





    **********





  昼食の後片付けを自ら引き受けてくれたことに感謝し僕が紅茶を淹れケーキを用意した

 午後四時前。生クリームを乗せたフォークを片手に御手洗が首を傾げた。

 「…ああもう、本当に困った人だな君は。もしかしてわざとやっているんじゃないだろう

 ね?」

 「えっ、何が?」

 「――また見てたろ、僕の“ここ”。…もうそろそろ訊く権利があると思うから訊ねるが、

 一体何だって言うんだい? 言いたいことがあるのならはっきり言ってしまった方が互い

 に暮らし易くなると思うんだけど」

  言いながらフォークを皿へと戻し置き、自分の唇を指で示す。

  …ああ、僕の莫迦……

 「…また見てた?」

 「見てた。――僕がケーキを運んでた間中、ずっとね」

 「ごめん……」

 「謝らなくていい。でも理由を教えてくれないか?」

 「う〜ん……」

 「四日前に友人と出掛けてから…かな? 君がその癖を憶えてきたのは。そういえばその
                       
 なに
 時の話って大して聞かなかったように思うけど……何か特別なことでもあったのかい?」

 「ええと……」

  ――果たしてストレートに訊ねるべきか否か。

 「笑わない?」

 「笑わない」

 「…って言ってもどうせ笑いたけりゃ笑うだろ、君は」

 「いや、表面上は我慢するよ。笑いたければ心の中で笑わせて貰う」

 「それじゃ意味ないよ」

 「気付いたか」

 「この前友人と会った時に映画を観に行ったんだ」

 「唐突だな、もう本題に入ってるのか」

 「言っておくけど別に変な映画じゃない。成人指定も何もない普通のヒューマン・ドラマ

 だ」

 「別にまだ何も言ってないよ」

 「主演女優は確かに美人だったけど彼女が目当てで観に行ったわけじゃない。というより

 その映画は友人が観たいと言い出したものだったからね。――とにかくそれは出来のいい

 洋画で、舞台はアメリカのサンフランシスコだった。君が子供の頃に棲んでいたっていう

 アルカトラス島も話題に少しだけ出てきたよ」

 「ほう」

 「で、君ってこういう生活してたのかなー、日本とはやっぱり違うなーって考えながら観

 ているうちに……――――キス」

 「…は?」

 「いやだから。キスシーンの多い映画だなって気付いて。――…ああもうやっぱりいい、

 ごめん忘れてくれおやすみ!」
                 
 はな
 「ちょっ…何だよ、そんなところまで話しておいて。別に変な話だとも思ってないし心の

 中でも笑ってないよ。大体おやすみって君……今はまだ夕方の四時過ぎだぜ?」

 「う〜…――…だから、さ」

 「うん?」

 「変な意味でじゃなくてさ、あれって習慣なんだろ? だから……」

 「だから?」

 「だから。――――君もしてたのかなって、ああいうこと」

 「…――――」

  一気に言いたいことを捲し立てると、余裕の笑みでこちらを見ていた御手洗の顔から表

 情が失くなった。明るいリビングに気まずい沈黙が流れる。どうしよう、誰もフォローし

 てくれる人間なんていないのに好奇心に負けて僕のバカ……

  頭の中で懸命に続ける科白を考えていると御手洗は薄く苦笑を浮かべ僕の方を向き直る。

  意外に誠実な口調で、言った。

 「まぁ確かにあちらが日本よりスキンシップの激しい国であることは認めるが……キスっ

 て、今は唇へのものを問題にしているわけだよね?」

 「うん……」

 「それを挨拶でしてた?」

 「いや、挨拶程度なら頬とかだったと思う、早くてよく解らなかったけど」

 「――じゃあ恋人同士での挨拶は? どう?」

 「ああ、それはもう……気軽にしてた」
                    
こぶし
  御手洗は困ったように微笑み嘆息すると、拳でテーブルに頬杖を突き天井を軽く見上げ

 る。

 「う〜ん、こうして話だけを聞いていると日本とそう変わらない印象を受けるが、君が言

 いたいことは何となく理解出来るよ。

  …要するにあの日本人にはない自然な動作と言うか、スマートさが気になるんだろうな

 ……」

 「ああ、うん、そういうことか…――そうだね、あの躊躇や照れのなさがああしたことを

 日常的に見せたのかも知れない。――で、どうなの?」

 「……は?」

 「いや、は? じゃなくて。してたの?」

  すると御手洗はますます困惑を深めた表情になった。口調にだけは余裕を残し少し呆れ

 たように言う。

 「石岡君、今、僕の話を理解しながら聞いてた?」

 「聞いてた」

 「僕があちらで女性とお付き合いをしていたと思うのかい?」

 「現在の女嫌いは過去に何事かあったせいだとも考えられる。可能性は否定出来ないよ」

 「そういう女性はいなかった」

 「じゃあ男かも」

 「冗談よせよ」

 「だって当人にその気はなくても相手から仕掛けてくることだってあるわけだろ? 日本
              
 なん
 でならともかく、アメリカでは何か逃げにくそうだ」

 「石岡君……」
       
キザ
 「君って時々気障なところあるから案外モテそうだし」

 「石岡君」

 「一度くらいあるだろ?」

 「――石岡君」

  彼は真剣な面持ちで僕の言葉を遮ったが、こちらはもう引く気にはなれなかった。話題
                           
 かわ
 が話題だけにそう何度も切り出せるものではないし、お互い躱しにくい状況になっている

 ことも心得ている。はっきり言って物凄く興味があった。別に覗き趣味などないが、見ら
                            
きよし
 れるものなら見てみたい。今“完成したアゾート”と“御手洗潔のキスシーン”、どちら

 かを見せてやると言われたら僕は本気で悩み始めるだろう。それ程の関心事なのだ。

 「――君は一体何がそんなに知りたいのかな? こういうことは極々プライヴェートな問

 題だと思うけど……」

 「人に自分宛の手紙を読み上げさせておいてプライヴァシィも何もないだろ」

 「君にしてはしつこいね、どう答えれば満足する?」

 「純粋に真実が聞きたいだけだ」

 「真実か――成程ね」

  御手洗は少し軽蔑したように目を細めるとゆっくりテーブルに手を突き立ち上がった。

 ケーキも紅茶もそのままに、無言で自室へ戻ってしまう。

  僕はティーカップに手を掛けながら“あぁ怒らせたかなぁ”とぼんやり考えていた。そ

 して“やっぱり一筋縄ではいかないな”“でもだからこそこんなにまでも人の興味を引く

 んだろうなぁ”といつまでも未練がましく彼の過去を想像する。

 「…もしかしたらこういうのも一種の職業病なのかも知れないな……」

  ぽつりと呟き少し笑った。最近の僕は寝ても醒めても四六時中彼のことばかり考えてい

 る。気付いてみると――何だか。

 「莫迦みたいだ……」

  声に出して呟いた、瞬間。

  突然パン! と壁の向こう側から硝子製品の壊れるような音が聞こえた。続いて数冊の
       
 ゆか
 本がバサバサと床へ落ちる気配――無論、御手洗の部屋が音源だ。

  僕はティーカップをテーブルの上に戻しながら音のする方向をのろのろと振り返った。

 「……何やってんだ、あいつ……」
    
さっき
  つい先刻まで機嫌良かったくせに。…って言うか、そんなに怒るようなことなのか?
  
  放っといてやろうかとも一瞬思ったが、とりあえずきっかけが自分にあることは否定出

 来ないので僕は仕方なく席を立った。もし怪我でもしていたら自業自得とはいえ少し気の

 毒だ。

 「――御手洗、入るぞ」
                          
 あと
  物音がしなくなった部屋の前に立ち、軽いノックをした後僕は木製の扉を開ける。ベッ

 ドの脇に寝転がっている彼を見つけた瞬間「またか」と思い小さく嘆息を洩らしたが、よ

 くよく注意をして見ると何だか様子がおかしい。

 「御手洗ー、もしかして君、具合悪くないか?」

  心だけ慌てて彼の元へ歩み寄るとそっとその上体を起こし顔色を確認した。…真っ蒼だ。
            
 ゆか
  器用に割られたグラスと床に散らばっている本の位置を横目に見遣りながら僕は言う。
                         
 ゆか
 「…あぁ、暴れたんじゃなくてグラスを持ったまま君が床に倒れたんだね……」

  すると彼は口元だけを微笑の形に歪め囁くようにこう言った。

 「君が事件でいつも的外れなことを言うのは“状況を解析しなければならない”と強く意

 識し過ぎるからだ……」

  ――…こんな時にまで人の観察か。ヤな奴。

 「……厭味はまた今度聞くよ、今は君をベッドの上に移動させたい。自力で動けるなら何

 とか這い上がって欲しいんだけどな。今はまだ無理そうかい?」

 「――…厭味じゃないよ……褒めたんだよ……」

 「はぁ? …あ、あぁ、そうなの? あー……それは解ったからさ、とりあえず、ベッド

 に……」

 「……動けない」

 「え?」

 「動けないんだ石岡君。…僕はもうここから……動けないんだよ……」

 「…――――」
                                       
かお
  御手洗はベッドの淵に背を預けたまま右手の甲で目元を覆い呟いた。その切なげな表情

 と声にかけるべき言葉を失う。

  こことはどこだ? 僕との生活のことか? 御手洗は僕に飽きたのか? ならそう言え

 ばいい。

  瞬間、自分の思考の単純さに気が付いて力無く少し笑った。駄目だな僕は――昔も、今

 も。
           
 ゆか
  きっと今、御手洗は“床から立ち上がれない”と言いたかったわけではない。日本に、

 このマンションに、“僕に束縛されている”と言ったのだ。――…原因は解ってる、僕が

 アメリカの話などしたものだから外国が懐かしくなったのだろう。

 「…その体勢、辛くない……?」

 「…辛くない……」

  重要なことだけを確認すると、僕は身の置き処を失い彼の部屋を後にした。

  今の彼は誰よりも高く飛べ、そのことを望んでいるのに籠の中に封じられ苦しんでいる

 鳥のようにさえ見える。僕はそんなこと、全然したくないのに。
              
しょうぜん
  リビングを片付けながら僕は悄然とこの同居の意味を、そして今後の生活のことを考え

 る。

  彼のキス歴に関する興味はこの時点で綺麗に頭から、消え去った。





    **********





  いくらか眠ったようだった。

  彼がベッドに入っているのを見届け僕も自室で横になっていたのだが、気の重い将来を

 考えているうち、ついうとうととしてしまったらしい。時計を見るともう夜の七時。――

 しまった、夕食の支度をしていない。

  慌てて自室の扉を開けると、リビングの空気が妙に湿気を帯びていることに気が付いた。

 不思議に思いテーブルを見ると、中央に大量のそうめんが乗っている。

 「――ああ石岡君、起きたのかい? もし僕が作った夕食でいいのなら、もうそこのそれ

 食べ始めてくれても構わないけど……」

 「…いや、食べ始めてくれても構わないって言うか……僕が断わったところでこんなの君

 一人じゃ食べきれないだろう」

 「あぁ、ちょっと失敗した。そんなに作るつもりじゃなかったんだけどさ。いやー、増え

 ちゃうもんだね!」

 「昼食冷麦だったのに……」

 「あはは、まあいいじゃないか、朝食がうどんだったわけじゃないんだから!」

 「…後で御飯炊くよ……絶対に夜、腹減りそう……」

  ゆっくりとした動作で椅子を引き坐りながら僕は仮置きされているテーブルの食器類を

 整えた。……ちょっと茹で過ぎに見えるけど硬くて食べられないよりはまぁマシか。
                         
 すす         キッチン
  そうめんを茹でるのに使用したらしい大鍋を水道水で濯ぎながら、御手洗が厨房から声

 をかけてくる。

 「石岡君――機嫌は直ったかい?」

 「は?」
     
さっき
 「いや、先刻。怒らせちゃったみたいだから」

 「…誰が?」

 「僕が」

 「誰を?」

 「だから君を」

 「何で?」

 「何でって――…僕が動きたくないなんて駄々捏ねたから……何? 怒って出て行ったん

 じゃなかったの?」

 「…あはっ、違うよ……」

  何だ――深読みし過ぎたのか。余計な心配して損した。それにしても……

  じゃあこれは僕の機嫌を取る為に用意したそうめんだってことか? …殊勝なところも

 あるんだな。

  とにかく――こうして気を遣ってくれるということはこの生活自体が気に入らないわけ

 ではないのだろう。安心した僕は“後片付けはまとめて食後にやるから”と彼を呼び、普

 段と変わらぬ気軽さで多過ぎる夕食を平らげたのだった。

  そうめんの茹で方ぐらいは、何となく憶えてくれたらしい。





    **********





  色々あった一日だったが(とは言っても、事件がある時に比べれば或いはとても穏やか

 な日であったとも感じられ)、僕は機嫌良く流し台の前に立っていた。

  あんな男に傍にいることを赦されたぐらいで喜んでいる自分を疑問には思うが、嬉しか

 ったのだから仕方ない。

  食器全てをスポンジで磨き、さぁ後は洗剤を水で洗い流すだけと蛇口に手を掛けた瞬間

 だった。

 「石岡君」

  背後から名を呼ばれ習慣的に振り返る。何、と思う間もなくそれは突然やって来た。

  僕の目の前にすっと彼の顔が現れて、触り慣れた大きな掌に左の頬を覆われて。



  ――気付いたら、キスされていた。何が何だか解らない。



  頭が混乱しこちらから一度唇を離すと、今度は強い力で壁に押さえ付けられる。恐ろし

 い程真剣な様子で二度目は深く唇を合わせてきた。僕の両手は宙に浮いたまま、彼を振り

 払うことすら出来ない。洗剤の泡が付いているからだ。

  一度目は、ただただびっくりした。だが“何が起こっているんだ?”と思いながら、そ

 れでもすぐに唇を離すことを赦された。

  しかし二度目は違った。どんな抵抗をも聞き入れはしないという強引さで、角度を変え

 執拗に僕を追い詰めていく。
             
 あと
  強弱を付け唇を数回吸った後、熱い舌がゆっくりと侵入してきた。その柔らかさにドキ

 リとする。彼の身体にこんな部分があったことを不思議に思ったが、その意外さは別に不

 快ではなかった。僕は上顎を舐められながら、歯で時折甘咬みされながら、彼とのキスを

 楽しんでいたのかも知れない。

  勿論積極的に応えるようなことはしなかったが、彼のしたいようにさせ抗うことはしな

 かった。目に見える様子よりも僕の頭の中が酷く冷静だったせいだろうと思う。考えてみ

 るとおかしいな――他の者が相手ならばこんな余裕も寛容さも持てないはずなのだが。

  そんなことを思っていると、両肘を曲げたまま宙に浮かせていた腕が怠くなってきた。
                   
 ゆか    よご     ゆか よご
 …と言うか、この感覚ではもうとうの昔に床は洗剤で汚れている。床を汚してしまったの

 なら後で掃除をしないわけにはいかない、ならばもうついでと開き直り僕は背後の壁に手

 を突いた。

  当然だが、僕はこの二度目のキスを受け入れた時にここ数日間考え続けていた疑問のこ

 とを思い出していた。だからこそ、興味から僕は彼を振り解かなかったのかも知れない。
                                       
くすぐ
 “ああそうか、これは御手洗なんだ”――そう自覚した途端少し居心地が悪いような、擽

 ったいような気がして僕は思わず頬の筋肉を緩めてしまった。苦笑が喉を鳴らす。

  彼は深く重ねていた唇を一旦離すと、舌を挿し入れようと角度を変えながら呟いた。

 「――…どうして笑ってるの……?」

 「…いや、律儀な奴だなと思って……まさか実践してくれるとは思わなかったからさ……」

 「……実践……?」

  低い声色でそう復唱すると彼は顔を上げ正面から僕を見つめ返した。その哀しそうな表

 情はちょっと形容が思い付かない程だ。

 「まさか君は……僕が昼間の疑問に答える為にこんなことをしたと思ってる……?」

 「…――――」

  今度こそ、頭の中が真っ白になった。自分の言葉が彼を傷付けたのだと理解すると同時、

 今更な疑問に目の前の男を見つめる。

  そうだ、まさか本当にそれだけの為に彼がキスをしたとは思わないが……だったらこれ

 は、一体何なんだ……?

 「僕が動けないと言った意味を、君は理解していない……」

 「…何が……」
   
 ゆか
 「僕は床から立ち上がれないと言ったわけじゃないんだよ」
          
さっき
 「じゃあ、やっぱり先刻のは――」

  日本から、このマンションから、僕から離れられないという意味だったのか――? 考

 えていると、彼の細く長い指が僕の胸を指した。

 「君が――」

 「――――」

 「君が心から、離れない」

  ――えっ……?

 「多分、初めて出逢った時からだよ、ずっと……ずっと僕は君のことばかり考えてた。勿

 論謎を追いかけている時や仕事をしている時はそのことに集中出来るよ、でも…――いつ

 の間にか僕の心の中に君のことだけを考えていればいい部屋があって――最近の僕は、そ

 こにばかり入りたがる。…哀しい想いもするけどね、でも……動けない。そこへ入ってし

 まうと僕は部屋の隅に坐り込んでしまって、気力を失って、そこから一歩も……動けなく

 なるんだ……」

  右手を壁に突き僕を追い詰めた恰好のまま言い聞かせるように彼は言った。向こうは今
          
かお                     かお
 にも泣き出しそうな表情をしていたが、こちらは多分酷く鹿爪らしい表情をしていたと思

 う。

  どれ程僕が鈍いとはいえここまで言われれば流石に解る。彼は、僕のことを――…

  無言で体勢を保っていると、今度はついばむようなキスに唇を塞がれた。二回、三回…
 
 わず
 …僅かな音に胸が疼く。

 「んっ、…ん…っ――…」

  一度意識をしたらもう駄目だ、熱い吐息が止まらない。頭の中がグラグラする。キスに

 酔っているつもりはないが、全身の力が抜け足元から崩れそうだ。

  彼は唇を離し真っ向から僕を見つめると、突然背に両腕を回し僕の身体を抱き締める。
       
 うず
 僕の肩口に顔を埋め、何だか酷く弱々しい声色で「応えて……」と呟いた。何て寂しそう

 な声を出すんだろう、とても普段の彼からは想像が出来ない。

  僕は何故か泣きたいような気分になり、彼をゆっくり押し戻すと今度は自分から唇を重
     
 ひら
 ねた。薄く開いた彼の口腔へ舌を挿れる。互いに熱に浸る。溶ける――…

  四度目は情熱的に唇を貪り合った。僕は唾液の立てる音を聴きながら最後の理性が切れ

 るのを、感じた。





    **********




                                 
 ゆか
  もしかしたら永遠に続くのではないかと疑った長い長い口吻けは、僕が床へ崩れると程

 なくして終了した。
                                      
  ほど
  御手洗と正面から抱き合った恰好のまま僕は壁際に坐り込む。彼の背に回した両腕を解

 くきっかけが掴めず、随分と長い間二人はそうしていた。互いの心音を右胸に感じる。

  何故こんなことをしたのか、とは訊けなかった。好きだからだと答えられるに決まって
               
さいちゅう
 いる、彼からの告白は先程行為の最中に聞いてしまった。

  しかしそうなると今度は自分が答えを出す段階であるのだと自覚しないわけにはいかな

 いのだが、真面目に考えれば考える程どうすれば良いのか解らないのだった。あぁ、彼は

 何という厄介なことをしでかしてくれたのだろう。
                       
 うず
  僕が深く溜め息を洩らすと、御手洗は肩口に顔を埋めたままの体勢で俯きながら呟いた。

 「……答えなくていい……」

 「……え?」

 「答えなくていいよ……今は」

 「え? 何で? …でも……」

  僕が自然に両手を外し彼の両肩を支えると、苦笑を孕んだ男の双眸にぶつかる。御手洗

 は少し困ったように眉を寄せ、言った。

 「だって。――君が困るようなことを言っているのは流石に自覚しているし、――…溜め

 息…」

 「溜め息?」
       
 
 「…そう何度も吐かれちゃね。今すぐどうこうしろとは言えないよ」

 「…………」

  見つめ合うこと十数秒。僕の心底困り果てた表情に、彼は唇を歪めて笑う。

 「自分の立場が微妙だということは解ってるんだ――例えば君は今、相手が僕でなければ

 キスを受け入れたりはしなかっただろう? だけど同時に多分僕は“僕だから”君を悩ま

 せ、返事も貰えない。……いいことなのか悪いことなのかは、解らないんだけどね」

 「御手洗君、僕は――」

 「――解ってる。確かに君は流され易い人だが根は頑固なところがある。誰とでもこんな

 ことはしないはずだ、それは理解してる。だけど今のは不意討ちだし、…あぁ……ちょっ

 と待って、言葉が巧く……まとまらなくて……」
       
 しか                いっときうな
  御手洗は顔を顰めると左手の人差し指を眉間に当て一時唸っていた。しかし巧い表現が

 見つからなかったらしい。うん、と僕が頷くと短く苦笑し、言った。

 「――とにかく。僕が結論として伝えたかったのは僕は本当に好きな人とでないと絶対に

 キスなんかしないということなんだ。相手が女性だろうと病人だろうと知ったことじゃな

 い、構わず突き飛ばす」

 「…………」
                       
すいしょう
  僕は彼のそんな言葉を聞きながら、ぼんやりと『水晶のピラミッド』事件の時のことを

 思い出していた。レオナさんへの罪悪感が募る。

 「ま、そういったわけだから……今日のことはあまり深く考えないでくれたまえ。君が悩

 むと僕も悩む、お互いに辛くなりたくてこうしたわけじゃないからね。
                    
    もら
  …それじゃ、申し訳ないけれど僕は散歩に出させて貰う。このまま向かい合ってると、

 また――…はは、何でそんなことがしたいのかな僕は。……とにかく、出てくるよ」

  呟きながら思い切ったように僕の手を放し、くるりと高い背を向ける。黒いシャツには
                                     
  ゆか
 僕の手から移ったらしい洗剤の染みが二〜三箇所残っていた。そして次にああ、この床と

 壁も何とかしなければなと思った。

  彼が扉を開けた時、僕の口を衝いて出た言葉は「海に落ちるなよ」だった。

  つくづく――妙な関係だと思う。


                      
 おもはゆ
  意識をすると舌を動かすことも唇を開くことも面映く感じられ、僕は壁際に立ち尽くし

 たままじっとその口を噤んでいた。

  息が、出来なくなった。





    **********





  随分と長い間僕の興味を引いていた御手洗のキス歴は程なくしてその効力を失った。全

 く気にならなくなったと言えば嘘になるが、そんなことよりももっと気になる疑問が僕の

 頭を支配し始めてしまったからだ。

  あれはどう考えても物慣れた態度だったように思う――…彼のことだから何があっても

 不思議ではないが。

  …というより、あんなキスをされたら多少その気がなくても先のことを考えてしまう。

 女性だったら尚更だろう。彼が何を考え唇を重ねていたのかは知らないが――僕達は状況

 的に見ても冷静だった方だと思う。あそこで終われたのが不思議なくらいだ。

  つまり。

  僕の疑問はそこへと動いてしまったのだ。“御手洗は誰かと身体の関係を持ったことが

 あるのだろうか”――?

  …あぁもう解ってる、僕が単純バカだということは。でも駄目なのだ、あんな経験をし

 てしまった後だからこそ一層――彼への興味が止められない。

  気付いてる。自分が無意識のうちに彼の下半身や腕を見つめてしまっていることは。そ

 して多分彼の方ももう――気付いてる。僕が何故彼を見る度慌てて顔を逸らすのかという

 ことに。

  解り易い僕に勘の鋭い彼、互いに気付かぬ振りを続けることが出来ないのは目に見えて

 解っている。

  僕が自室へ逃げようと身を翻した瞬間、視界の端で彼が呆れたように苦笑するのが見え

 た――。











本当は表に置いてもいいぐらいの緩いネタ。
実は初めて書いた本シリーズの裏小説は≪蜜色のティータイム≫だったのですが(!)
いきなりあれはマズイだろうと思い順番を入れ替えました。
しかしこれ、コメディとまではいかずとも“可愛い話”にするつもりだったのに、
だったのに――御手洗氏が超真剣に告白をしてしまったが為に
シリアス調になってしまったことが悔やまれますね
(←いつもコイツがマジになり書き手の計画を崩してくれる。くそぅ:苦笑)。
しかもキスシーン、何か長々とやってるし(笑)。
うちの御手洗さんはとても真剣に親友のことを想うが故
なかなか手は出さない紳士(?)なのですが、蓄めているものが多いのか何なのか、
一度くっ付いたら簡単に離れてはくれません(←ある意味こっちの方が怖いよ)。
…エッチも長いんだろーな、きっと……(笑)。




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